好きなこと記録

忘れないように…メモメモ!!

ビートルズ聖地巡礼 Strawberry Fields ストロベリー・フィールズ【12】

Strawberry Fields

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Strawberry Fields

 

ストロベリー・フィールズは

1870年に設立されましたが

元々はイチゴ畑でした。

 

この土地を裕福な海運商人が買い取り

豪邸を建てたのです。

 

その後、それをサルヴェーション・アーミー

(国際キリスト教団体)が

1930年代に購入します。

 

孤児院として改造されたこの場所へ

子供のジョンは良く足を運び

そこの子供たちと一緒に遊んでいました。

 

 

一人っ子として

叔父と叔母と暮らしていたジョンは

 

そこにいる子供たちに共感を覚え

よく門を乗り越え遊びに行ったそうです。

 

ジョンは孤児院で毎年開かれる

夏のパーティに参加し

 

レモネードの販売を手伝ったことも

あるそうです。

 

ある夜、ジョンは孤児院のベッドで

寝ているのを見つかり

 

もう一度立ち入ったら「吊るすぞ!」

(hang)と脅されます。

 

ジョンはこのフレーズをさりげなく

ユーモラスに♪Strawberry Feildsの中にも

引用しています。

 

Nothing to get  hung about

吊るされるほどのことではない

   ↓↓↓

立ち止まっている暇はない

 

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この孤児院はジョンの印象に

強く残ったことから

 

1970年代に彼の傑作となる

♪Strawberry Feildsを作曲します。

 

1970年ジョンは

ニューヨークへ引っ越した際

この家にとても似ていることが理由で

 

ダコタ・ハウスに住むことを

決意したのです。

 

この家は1969年に取り壊され

現在のものは

1970年代に建て直されたものです。

 

ジョンの死後、ヨーコ・オノは

毎年子供たちにクリスマス・プレゼントを

私に来ていましたが

今は空き家となっています。

 

ヨーコはジョンの灰を

ここに蒔いたという説がありますが

その証拠はありません。

 

********

 

落書きがひどくて(´;ω;`)

 

悲しい…。

ビートルズ聖地巡礼 リンゴ・スターの家 と ザ・エンプレス 【11】

リンゴの家 9 Madryn Street

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左:リンゴの家がある通り 右:リンゴの生まれた家

右の写真はリンゴが生まれた家。

両親が離婚する3歳まで住んでいました。

 

彼の父は離婚後

親の住む59番の実家へ戻りました。

 

じきに再婚した父はクルーへ引っ越し

その後リンゴには二度と逢うことは

ありませんでした。

 

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BEATLES って書いてある

 

このエリアでは

いくつかの道路が壊される計画がありましたが

 

長期に渡るデモのおかげで

リンゴの家の他117軒が無事に残されました。

 

 

リンゴは母のエルシーと

10アドミラル・グルーヴへ引っ越し

1963年まで同じ家に住みます。

       ↓↓↓

 

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リンゴの家② 10 Admiral Grove

 

リンゴは子供の頃から

病気にかかることが多く

 

7歳で虫垂炎

13歳頃には結核に苦しみました。

 

リンゴの母はバーで働くと同時に

角にあるパブで掃除の仕事を

していました。

 

後にハリー・グレーブスと出逢い

結婚します。

 

ハリーは、リンゴが入院していた病院を

出るなり、リンゴに初のドラムセットを

プレゼントしました。

 

********

 

1964年の夏に

リンゴのファンが押し寄せ

 

リンゴの母は

引っ越さざるを得なくなりました。

 

ファンの熱狂ぶりは

ビートルズマニアと呼ばれました。

 

リンゴの想い出の多くは

この家のものであり

 

80人も参加した21歳の誕生日会さえ

この小さな家で開かれました。

 

彼の大切な思い出は

すべてこの家で生まれました。

 

 

1963年12月7日

ビートルズリバプールの中心にある

”エンパイア・シアター"で公演した日が

 

リンゴにとって

子の家で過ごす最後の夜となりました。

 

翌日家を出る時の写真が

残っています。

 

リンゴは以前

”ローリー・ストーム”や

ザ・ハリケーンズ”といったバンドの

メンバーでした。

 

ビートルズに参加を頼まれていましたが

参加を決めたのは

 

ビートルズがレコード会社との契約に

成功してからのことでした。

 

 

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The Empress Pub

 

リンゴのファーストアルバムのカバーに

なっているパブ。

 

リンゴが生まれた家の近くにありました。

 

 

 

ビートルズ聖地巡礼 ジョージ・ハリソンの家 174 Mackets Lane【10】

ジョージ・ハリソンの家

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ジョージ・ハリソンの家

ここはジョージ・ハリソ一家が

1962~1965年までを過ごした家です。

 

ハリソン一家はリバプールにおいて

3回引っ越しをしていて

 

ここが3軒目の家です。

 

ジョージは12アーノルド・グローブにある

ベッドルームが2つの

小さな家で生まれましたが

 

両親と4人の子供で暮らすには

やや窮屈でした。

 

一家は1950年にスペック地区の

24アプトン・グリーンに移り住みました。

 

同地区には、ポールが住んでおり

彼らは同じスクールバスで学校に通い

とても仲良くなりました。

 

しかし、ジョージの母親はスペック地区に

落ち着こうとはせず

 

1962年にここへ引っ越してきて

ファンが毎日押しかけてくるため

 

新しい家を探さざるをなくなる1965年まで

ここに暮らしました。

 

ファンの女の子たちは

ジョージの父親の靴下や下着まで

ジョージのものと勘違いして

庭先から盗んでいったそうです。

 

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やがてジョージはここから15マイルほど

離れたワリントンに家族のための家を

購入します。

 

1970年 母親が脳腫瘍のため死亡

1978年 父親が肺がんのため死亡

1985年 長兄ハロルドも肺がんで死亡

 

1997年 ジョージ自身も肺がんと診断

されました。

 

199年 マイケル・アブラハム

フライアーズ・パークの家に押し入り

ジョージと妻オリビアは襲われます。

 

ジョージは何か所も刺されたものの

生き延びましたが

 

2001年11月21日

ガンで亡くなります。

 

ジョージの次兄ピーターもまた

2007年ガンで亡くなりました。

 

1964年2月9日 ビートルズ

エド・サリバンショーに出演。

 

その2週間後ジョージは21歳の誕生日を

家族や友人たちと、この家で祝います。

 

郵便配達人たちは

世界中のファンから届くカードと

62箱ものプレゼントを必死で届けて

くれたそうです。

 

翌日、ジョージは映画”A Hard Days Night"の

撮影のためにロンドンに向けて出発しますが

 

その日のカメラマンによって撮影された

写真を見ると

 

ジョージの顏には前日のパーティの

疲れがありありと見て取れたそうです。

 

 

ビートルズ聖地巡礼 St. Peter's Church Field  聖ピーターズ教会フィールド 【9】

聖ピーターズ教会フィールド (St. Peter's Church Field )

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1957年7月6日

ポールはジョンが演奏しているところを

初めてここで目撃します。

 

ポールはジョンとも共通の友人である

アイヴァン・ヴァーンに誘われて来ました。

 

ジョンの初バンド「ザ・クオリーメン」は

教会の墓で開催されるガーデンパーティでの

演奏を頼まれていました。

 

ポールはジョンを見て魅了されますが

”Come Go With Me"の歌詞を間違って

歌っているのと

 

その上にギターのチューニングが

合ってないと氣づきます。

 

 

 

ジョンは叔父のジョージを

ちょうど2年前に亡くし

 

彼が埋められた場所は

この教会の中のジョンが歌っていた

 

ステージのすぐ近くだったので

歌うのが辛かったのでは?

 

聖ピーターズ教会(St.Peter's Church Hall)

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1957年7月6日

 

アイヴァンが、ここで

ポールをジョンに紹介し

 

ジョンは早速ポールに

”トゥエンティ・フライト・ロック”を

弾けるか試します。

 

この時ポールはジョンにギターの

 

チューニングの仕方を教えてあげます。

 

その後、ポールは

Be Bop A-Lula Long tall Sally

を弾き、ピアノでリトル・リチャードの

物まねを披露したのです。

 

みんなは、ポールの歌唱力

ギターとピアノのスキル

 

それに歌詞をしっかり覚えていることに

感銘を受けました。

 

2日後ポールは

”クオリーメン”へ誘われました。

 

John recalld  that was the day

I met Paul, that it started moving.

 

ジョン

「その日ポールに逢った。

そしてすべてが動き出した…」と

 

 

エレノア・リグビー・グレーブ(Eleanor Rigby Grave)

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左:ジョン マッケンジー 右:エレノア リグビー

 

1939年10月10日に亡くなっている

エレノア・リグビーは

ジョンやポールとは無縁の女性でした。

 

ジョンとポールは友だちたちと

ティーネージャーの頃

教会の墓地に集まり

 

タバコを吸ったり、お酒を飲んだり

していました。

 

ジョンは自分の誕生日(1940.10.9)から

1年と1日前に亡くなっているエレノアの墓が

氣になりました。

 

ジョンとポールは作曲中に

「教会で死んだ」「名前と共に葬られた」

空想の女性の名前を考えていたところ

 

エレノアの名を思い出したそうです。

 

 

 

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教会

        

ビートルズ聖地巡礼 Mendips メンデイップス  ジョン・レノンが住んでいた家【8】

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1945~1963年までジョンが住んでいた家

 

ジョンが叔母ミミと酪農家の叔父ジョージと

一緒に1945年~1963年まで住んでいた家です。

(ジョンが住んだ家の中で一番長い期間)

 

母のジュリアは度々ジョンに逢いに来ます。

 

ジョンは母が道沿いにあるバス停から

降りてくるのを家の門から見つめながら

毎回待ちわびていました。

 

母がわざわざ遠くから彼に逢いにきていると

思っていたのです。

 

しかし実は

徒歩10分以内のところに住んでいました。

 

ジュリアはわざとバスに乗り

遠くに住んでいるように

ジョンに信じ込ませようとしました。

 

1952年の夏 12歳になったジョンを

従兄弟のスタンリーは

母ジュリアの家へ連れていきます。

 

ジョンにとって

母と異父の妹ジャッキーとジュリアが

こんな近い所に住んでいたことは衝撃でした。

 

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ジョンの家②

1955年

ジョンにとって唯一の父親的存在だった

叔父のジョージが

肝臓の出血が原因で亡くなります。

 

1956年にジョンは初めて

エルヴィス・プレスリーの曲を

寝室にあるラジオで耳にし

 

叔母ミミに

ギターを買ってくれるように頼みます。

 

ミミはギターなんかで

食べていけるはずがないから

しっかり勉強する方が大事だ

と伝え断りました。

 

ジュリアはミミの意思を無視して

ジョンに初めてギターを買ってあげます。

 

唯一家の中で弾くのを許されていた場所は

ガラス張りのサンルームでした。

 

ジョンは音を響かせるガラスと

床のタイルで出来たその部屋を

気に入っていました。

 

 

1958年7月15日

ジュリア・レノンは家を夜10時に出て

道を渡っているところを

車にはねられ亡くなります。

 

車を運転していたのは

運転免許試験にまだ合格していない

仕事へ遅れて急ぐ警察官でした。

 

ジュリアは即死でした。

 

ジョンはよく母を

「二度失った」と言っています。

 

一度目は叔母に預けられた5歳の頃。

二度目はこの関係を

また築き直し始めた17歳の頃でした。

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イングリッシュ・ヘリテッジのマーク

 

青いイングリッシュ・ヘリテッジ

(歴史的建造物を保護する組織であり

イギリスの著名人として

認定されている人の家に貼られます)

マーク

 

ジョンの死から20年経った

2000年に記念として貼られました。

 

そのイベントの日

ジョンの異父の妹ヴィクトリア

(後にイングリッドと呼ばれる)は

他の2人の異父の妹ジュリアとジャッキーと

ここで初めて対面しました。

 

叔母のミミは1965年に

ジョンがプール・ドルセットで

新しい家を購入してくれたため

この家を出ます。

 

ミミは1991年に88歳で亡くなりました。

 

ヨーコ・オノは、この家を2001年に購入し

ナショナルトラストへ寄付しました。

 

インテリアは

ジョンが住んでいた時のように作られ

現在はミュージアムになっています。

 

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ジョンの家の近所

 

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ビートルズ聖地巡礼 20 Forthlin Road ポール・マッカートニーの家【7】

ポール・マッカートニーの家

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ポールの家①

ポール・マッカートニーが母のマリー(♪Let it be に出てくるマリー)

父のジム、兄のマイケルと1955年~1964年まで過ごした家です。

 

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ポールの家②・③

 

こちらの家はポールにとっての7件目の家でした。

 

母のマリーが助産婦や区の看護士をしていたため

仕事場に近い家へいつも引っ越さなければならなかったのです。

 

ポールの母は1953年に乳がんと診断され

1956年10月31日に亡くなります。

 

ポールはギターや大好きなロックンロールで

心の痛みを癒したそうです。

 

父はコットンのセールスマンで長時間仕事をしていたため

ポールは朝自分で学校へ行く支度をして

バスに乗って行きました。

 

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ポールの家の近所

ロックンロールの方が学校より大事だと

感じ始めたポールは、学校へ行かない日もありました。

 

朝早く出勤し夜遅く帰宅する父は

ポールの欠席のことを一切知りませんでした。

 

ポールはジョンとジョージを電話で誘い

自宅でみんなで練習をしました。

 

ジョンとポールの初期の作品の多くはここで作曲されました。

 

The One After 909

I Saw Her Standing There

Love Me Do

She Loves You

When I'm 64  (これを書いた時、ポールはまだ15歳だったんですって!!)

 

 

ポールの兄マイケルは、アマチュア写真家で

ジョンとポールが作曲やくつろいでいる様子の写真を

何枚も撮りました。

 

マイケルはポールと一緒に学校を休んでいたのです。

 

この家はナショナルトラストによって

ジョンとポールの作曲した思い出や

 

ビートルズの歴史の一部として

1997年購入され

 

その後1950~60年代の頃の面影を取り戻すために

ポールの兄の力を借りて修復されました。

 

ポールは1999年に突然この家を訪れましたが

あいにくその日は閉まっていて、中に入ることはできませんでした。

 

市民はこの時、ポールの写真を撮りに集まってきたそうです!

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ポールの家④・⑤

 

家の中に入ることができるツアーもあるようですよ!

 

そこまで調べてませんでした(;^_^A

ビートルズ聖地巡礼 Penny Lane【6】

 

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Penny Lane

ポールはジョンが1967年に書いた

「Strawberry fields」を意識して

「Panny Lane」を書きあげました。

 

それから2人はリバプールでの子供の頃の

思い出を曲にすることにしたのです。

 

 

ポールの「Panny Lane」の

インスピレーションは

 

毎日通学のために乗り

ジョージとも出逢ったあの有名な

「86バス」です。

 

そのバスは「青い郊外の空」の下

「ロータリーの真ん中の停留所」で

停まりました。

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Bus Stop

ポールは兄のマイケルと一緒に

ペニー・レーン通りの先にある

バルナバス教会の合唱部のメンバーで

 

1982年

その教会で行われた兄の結婚式では

付添い人を務めました。

 

教会の写真が…(-_-;)

な・ない…Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

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BarBar

曲の中に登場することで有名な

床屋さんです。

 

私たちが行った時はお休みでした。

 

当時はポール、ジョンとジョージが

イタリア人のビオレッティに髪を切って

もらったそうです。

 

下の写真はポールが書いた「角の銀行」です。

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角の銀行(現在は病院)

 

なんか…もっと色々写真撮ったと

思ったんだけど…。

 

すぐに整理しないから

こうゆうことになるんだわ(^^;